神楽と鳴物・神事と音楽の関係
まつりを盛り上げるものとして、音楽があります。
たとえば、
神事の際に奉納される、神楽。
神社音楽として有名な、雅楽。
祇園祭や天神祭などで鳴りひびく、鳴物。など。
音楽の起源は、有史以前まで遡ることができますが、おそらく最初の音楽は歌声でしょう。
声。
感情の起伏により発せられる声の抑揚から、リズムが生まれたと考えられます。
その際に、手拍子などを伴ったかもしれません。
音楽はまず、人間の体を使って発せられた、コミュニケーションの手段だったのです。
人間が集まり、1つの共同体の中で生活するにしたがい、みんなで行なう作業が出てきます。
狩猟や農耕など、生きるためにはお互いの意思疎通が大切になりますし、目的の成功を願ったり、達成したよろこびを分かち合ったりするなど、心を1つにさせる手段が生み出されるのは、ごく自然ななりゆきです。
古代の音楽が、祈りや祝祭、あるいは狩りや儀式など当時の生活に密着したものであることは、このことから容易に想像ができます。
神事の話に戻りますが。
先にあげた、神楽、雅楽、鳴物には、それぞれ役割分担があります。
神事で奉納される神楽は、「神座(かむくら)」が転じたものとする説が一般的です。
その起源は、
『日本書紀』神代紀に、
猿女君の遠祖天鈿女命(あまのうずめのみこと)、すなわち手に茅纏の矛を持ち、天石窟戸(あまのいはやと)の前に立たして、巧に作俳優(わざをき)す。また天香山の真坂樹をもって鬘にし、蘿(ひかげ)をもって手繦にして、火処焼き、覆槽(うけ)置せ、かむがかりす。この時に、天照大神、聞しめして曰さく、「吾、このごろ石窟に閉り居り。おもふに、まさにに豊葦原中国は、必ず為長夜くらむ。いかにぞ天鈿女命かくえらくや」とおもほして、乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、すなわち天照大神の手を奉承りて、引きいだしまつる。
とあります。
アメノウズメが持つ矛は、それを持ちあるしぐさを行なうことを『古事記』では、「胸乳を掛き出で裳緒をほとに忍し垂れき」とあるように、少しセクシャルな要素もありますが、豊穣や活力を高めるなど、生命力を司るシンボルです。
ここでは、隠れてしまった太陽に活力を与えようとしたものです。
また、アメノウズメの身につけるものは、現在も神事で見かけるものが多いと思います。
たとえば、京都・葵祭では、参列する奉仕者が葵の葉を身につけていますし、植物(上記の『日本書紀』では「ひかげ」になっています)のたすきをかけているのもよく見かけるでしょう。
これらは、その聖なる植物の力を身につけることで、邪気をはらい、その力の加護を得るためのものです。
アメノウズメは、このように聖なる力を身につけて、太陽に活力を与えようとしているわけです。
『古事記』にも同様の記事がありますが、アマテラスの岩戸隠れの段でアメノウズメが神がかりして舞った日本神話が神楽の起源とされています。
猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、これは猿女君がその役割をになうことになった由来である、祖先のアメノウズメの活躍を描いたものですが、ここから、神楽の元々の形は鎮魂・魂振に伴う神遊びであったと考えられます。
雅楽は、中世以前に中国や朝鮮半島、南アジアから伝わった儀式用の音楽が元になっています。
日本には、神楽歌・大和歌・久米歌などがあり、これに伴う簡素な舞もありましたが、5世紀頃から仏教文化の渡来と前後して音楽や舞が伝わってきました。
雅楽は、日本古来の歌や舞と、渡来してきたものが融合してできたもので、10世紀ごろに完成。
皇室の保護のもと、伝承されてきたものですが、これが廃れた時期もありました。
現在では、宮内庁のものが有名ですが、そも基礎となったのが、近代以前に三方楽所とされていた、大阪・四天王寺の天王寺楽所、京都・宮中の大内楽所、奈良・春日大社の南都楽所です。
この三方楽所は、現在でも伝統を守りつづけています。
これら雅楽は、神事の際に、神を慰撫する役割を持っています。
この辺り、神楽とよく似ていますが、神楽が、神への奉納(鎮魂・魂振)という役割を明確に持つのに対して、雅楽にも、そのような要素は認められつつも、儀式音楽としての役割を担っているようです。
おそらく、皇室の保護のもと存続され、形式が整えられてきたことも、その理由でしょう。
神楽が奉納の際に行なわれ、雅楽が儀式の間、演奏されるのはこのためです。
しかし、この雅楽は、神事の最重要部分においては、演奏されません。
神事の最重要部分とは、いわゆる、神おろし。
まつりのために、ご神体を移す部分です。
本来、この部分は、秘儀ですから公開されません。
京都・上賀茂神社の御阿礼神事がこれです。
もともと神おろしは、夜の暗い中で行なわれていました。
仲哀天皇の記事からもそれが窺えます。
現在も、上賀茂神社の御阿礼神事や、奈良・若宮神社の若宮おん祭がそうです。
つまり、秘儀、なのです。
現在は、観光客相手のため、日中に行なわれることも多いですが、それでも、その部分は非公開です。
日中の行なわれる場合、この部分においては、おそらく多くの神社でもそうだと思いますが、演奏は止まります。
その代わり。
「お〜〜〜〜〜〜、お〜〜〜〜〜〜」
という神社関係者の低い唸り声が聞こえてくるはずです。
もしくは、無言。
神事の最重要部分は、古来の様式によってとり行なわれているのです。
鳴物ですが、これは、大阪・大阪天満宮の天神祭がわかりやすいかも。
船渡御の際に、「人形船講」の船が列外船として、鳴物を鳴らし、自由に走り回っています。
上の画像は、私が撮影した人形船講です。
これは、神の巡行の際に先導役の厄除けという意味を持っています。
人形船講には猿田彦の人形が乗っていますが、これは「露払い」といい、わざと錫杖を引きずって地面と触れさして音を発することで悪霊を退散させることで、猿田彦が皇孫ニニギノミコトの先導をつとめた神話に由来します。
江戸時代、参勤交代のための大名行列の先頭に、
「した〜に〜、した〜に〜」
と言って進むのも、似たようなものです。
京都・祇園祭のコンチキチンも、「鳴物」に相当しますね。
鳴物は先導役・邪気払いですから、雅楽と同様、重要部分においては演奏を止めなければなりません。
このように、音楽にも役割分担があることをふまえて見学するのも楽しいですよ。
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瑞祥・人々の願い
秋篠宮悠仁親王のご誕生をめぐって、不思議な現象が報告されているようです。
正直、このニュースを見た時は、「現代でも、こういうことが意識されるんだな」と思いました。
■ プリンセス・キコ開花
秋篠宮夫妻の結婚にちなんで命名され、秋篠宮様が手植えされた蘭「プリンセス・キコ」が、紀子妃の懐妊が明らかになった直後に偶然開花したことが、今年2月9日にわかった模様。
名古屋市中区の「ランの館」によると、懐妊の報道があった7日夜から8日朝にかけて、2004年5月に秋篠宮様が植えられた2鉢のうち1つが、初めて開花したという。
nikkansports.com:
http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-060209-0003.html
蘭の開花の時期などは、環境や品種によって異なるので、この時の開花が必然だったのか偶然だったのか不明ですが、偶然にしても、人々の心には、懐妊の喜びと重なったことでしょう。
■ 厳島神社の御鳥喰で神鴉出現
5月15・16日の厳島神社の末社七つを巡拝する御島廻(おしままわり)式において行なわれる「御鳥喰(おとぐい)式」。
厳島大神が鎮座地を求めて島を巡った際、神鴉が先導したとされる伝説にちなんだ神事で、養父崎神社の沖に粢を浮かべると、雌雄一対の神鴉が団子をくわえて去るという。
神鴉はケガレを嫌い、現れないと「鳥喰が上がらない」として、よくない兆しともされた。
ここ5年間、5月の御鳥喰式に神鴉は現れなかったとうが、今年は現われたという。
http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/miyajima/29.html
■ 福岡上空に彩雲
秋篠宮様が公務のために熊本県を訪問中の5月25日、福岡県内の上空でパステルカラーに彩られた雲「彩雲」が観測されたという。
彩雲は、古くは「慶雲」「瑞雲」と呼ばれ、めでたいことが起きる前兆。
YOMIURI ONLINE フォトニュース:
http://show.yomiuri.co.jp/photonews/photo.php?id=9721
この他、懐妊発表前の1月に、琵琶湖で黄色のビワコオオナマズが捕獲され、その10日後にも、東近江市内で別の黄色のナマズも捕獲されたり、竜の形をした雲が目撃・撮影されたりと、「悠仁親王」と瑞祥で検索すると、いろいろと出てきました。
瑞祥とは、天の意志であり、為政者に下す天命です。
祥は吉凶の発現、瑞は天が宝をもって人の徳に応ずることを示しており、具体的には、鳥獣・草木・河・泉・気象・鉱石その他さまざまな事物が、王の資質・王朝の興亡をあらわすものとして登場します。
例えば、『漢書』の「王莽伝」では、王莽が、漢に代わって天下を保有すべきであるとする趣旨を説く上で、数々の瑞祥の報告や符命など、天命に関わる予兆の収集が行われています。
日本でも、孝徳朝の「白雉」をはじめ、奈良時代には瑞祥にもとづく改元の例を多く確認できますし、瑞祥には、為政者側の意図が加わることもありました。
このような瑞祥システムが、現在も機能しているというのは、非常に興味深い。
人間の心に根付いているこのような思想・思考が、行事を継承させていくのでしょうね。
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子孫繁栄・天皇家の出産あれこれ
2006年9月6日に、秋篠宮家に親王誕生という慶事がありました。
皇孫の中でも、はじめての親王ということで、誕生後の儀式などがよく紹介されています。
どんな儀式が行われるのか、現在と平安時代を比較してみましょう。
皇族の誕生については、戦前の日本帝国憲法において、旧皇室親族令および同令附式に「皇子誕生式」として規定されており、現在もだいたいそれに従って行われています。
(1)着帯
現在:
安産をいのり、妊娠5、6ヶ月目に内御着帯式、9ヶ月目に正式な御着帯式が行われます。
これは江戸時代中期からの儀式。
御着帯式は、出産が軽いといわれる犬にちなんで、妊娠9ヶ月目の戌の日に実施。
御着帯式で使われる帯は、内側が紅、外側が白の生平絹、長さ4m55cm、幅46cm。
それを幅半分を折り、三重にたたんで2羽の鶴と若松が金泥で描かれた和紙で二重に包み、桐の蒔絵の箱に収めたものを、男子皇族の中の最年長者がなる「帯親」が天皇より預かり、今回の場合は秋篠宮家に届けられます。(御帯進献の儀)
それを、夫である秋篠宮様によって妃のお腹に結ばれるわけです。
平安時代:
妊娠3、4ヶ月目になると里第に退出してから、着帯の儀が行われます。
帯は、現在は天皇家側により用意されますが、平安時代は、妻の家柄・経済力が夫の政治力を支えていたこともあり、妊婦の親戚により用意され、儀式も、僧を招いて加持・祈祷を行った後で行われました。
出産までは、もののけが現れてお産を妨げるので、このように加持・祈祷が常に行われるわけです。
『源氏物語』にも、葵の上のお産に際して加持・祈祷が行われています。
また、いざお産になり難産になると髪を一部切って受戒を受けさせることも。
『餓鬼草紙』には出産の場面に、土器の破片が散乱しているものが見えますが、これもおそらく、土器を割ることによって邪気を祓っているのでしょう。
ちなみに出産の際に見られる行為としては、ヤマトタケルとその双子の兄が生まれるとき、その父・景行天皇は大きな臼を背負って安産を祈っている場面などもあります。
(2)産屋の準備
現在:
現在では、宮内庁病院(今回は違いますが)で出産されるので、特に部屋を整えたりすることはないのですが、宮内庁病院がなかった昔、平成天皇の母・香淳皇太后が、天皇を出産される際には産殿が増築されています。
平安時代:
産屋は、それまであった装束や調度が撤去され、すべての調度品は白一色に整えられました。
白は、奈良時代には天皇の色であり、また神事の装束でもあります。
長くなるので詳しくは書きませんが、女帝の即位の装束は白です。
ここで産屋を白一色にするのは、仏教の影響が強いでしょうね。
(3)へその緒・乳づけ
古来の風習として、へその緒は竹刀で切るわけですが、現在はさすがに使いませんよね。
昭和天皇の時代までは乳人(めのと)制度があったので、これは形だけですが、出産後、母となった人がはじめて子に授乳させることを「乳づけの儀」と呼びます。
(4)賜剣の儀
現在:
旧皇室親族令附式では、誕生後、はじめての儀式が、これ。
出産が午前0時から午後5時の場合は出産当日、出産が午後5時以降の場合は、出産と翌日に、病室の枕元に、天皇からの使者を通じて、親王の場合は守り刀、内親王の場合は刀と、着袴の儀で使われる袴が贈られます。
平安時代:
天皇から使者は近衛中将です。
ただ、内親王の場合にも刀が贈られるようになるのは、三条天皇の皇女禎子内親王の時から。
(5)浴湯の儀・読書鳴弦の儀
現在:
誕生から7日目(お七夜)に行なわれる儀式。
女官に抱えられながら檜のたらいに入れられ、湯を浴びられる所作をします。
その間、白い幕で仕切られた向こう側で、読書(とくしょ)の役が国書(『日本書紀』の推古天皇に関する一節)を読んで文運を、2名の鳴弦(めいげん)の役が左足を一歩踏み出して掛声のもと矢のない弓の弦を2度引き放って武運を祈ります。
これは、破魔(はま)の儀とも言われています。
平安時代:
『御産部類記』によると、陰陽師によって日時が決定。
一条天皇の中宮彰子の御産の場合、出産後約8時間の後に行なわれています。
『紫式部日記』によると、陰陽家の勘文にしたがって、吉方の流水を汲み、同時に御湯殿の設備が整えられます。白絹を敷き、その上に御槽が立てられ、すべての調度が白絹で覆われます。
奉仕する側も白装束で、熱い湯を水でうすめながら、16の缶に分配し、湯巻姿の女房2人によって奉仕を受けます。
その後、僧の祈祷を受けて、読書鳴弦の儀が行なわれるのですが、読書博士3人が読むのは、『史記』『孝経』その他の漢籍の一節で、それを3回ずつ読みます。
鳴弦は、ただ弦のみを鳴らす作法で、『紫式部日記』には、読書博士3人の後ろに鳴弦が五位10名、その後ろに六位10人が並んで行われたことが記されています。
この儀式は、7日間にわたって朝夕2回行なわれます。
現在の7日目の儀式は、かなり簡略されているわけですね。
(6)産養(うぶやしない)
平安時代には、誕生の当夜、3日目、5日目、7日目、9日目の夜にお祝いが行なわれています。
これを「産養」といいます。
『紫式部日記』には、3日目の夜に、「啜粥(すすりがゆ)」が行なわれます。
声高に常套句を唱え、粥をすする。
この動作を3回繰り返します。
7日目には、命名。
この風習は現在も行なわれています。
いわゆる「お七夜」で、浴湯の儀の後に天皇から、今回の場合だと、秋篠宮様によって「命名の儀」が行なわれます。
誕生にまつわる儀式は、つつがない成長を祈って行われる大切なもの。
現在と平安時代を比較するのも楽しいですね。
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菊で長寿・重陽の節供
9月9日は、重陽の節供です。
重陽の節供は「菊の節供」ともいい、春の桃、初夏の菖蒲と同様、季節を代表する花が配されています。
といっても、今の時期、菊もつぼみ程度ですから、あまりぴんと来ないかもしれませんが。
重陽の節供は、五節供の1つで、1月7日の「人日(じんじつ)」の他は、重日思想に基づき日付が固定された祭日。
祭日は旧暦(陰暦)なので、新暦になおすと、10月末から11月はじめにあたり、今年(2006年)でいうと10月30日ですから、ちょうど菊の開花時期と重なるわけで、確かに「季節を代表する花」なんですね。
この重陽の節供については、中国の影響を無視するわけにはいきません。
農耕社会では、生活の節目が行事と結びついています。
中国の年中行事も、ちょうど耕作や収穫、体の不調が多くなる時期と合っていて、たとえば、
春節:冬の農閑期
元宵節:正月の慌しさが終わる時期
清明節:春の耕作と夏の耕作の間
端午節:一度目の収穫時期
中元節:暑さが体にこたえる時期
中秋節:一年最後の収穫時期
重陽節:冬を迎える準備時期
冬至:冬の寒さが去る時期
という感じです。
このことは、以前、京都・祇園祭の話などのところでも書きましたが、行事は共同体を統括する上で必要不可欠なものなので、だいたいこのような形に落ち着くのでしょう。
また、行事には「幸福祈願」「厄除け」といった特質があります。
節目節目に祈願することによって、次につなげていくわけですね。
重陽の節供は、中国では「重陽節」。
陰暦の9月9日。
「重」は重なる意味で、「陽」は太陽の意味。
数でいうと奇数で、月と日がともに陽の数の最大である9が重なるところから、「重陽」と名づけられ、また「重九」とも称されました。
古代中国では、9を陽数として、吉祥、幸福、光明の象徴に考えていて、重陽の「九九」もまた、中国語の「久久」と同音となることから、長久平安の意味も付され、重要視されていたわけです。
重陽を祭日にしたのは、東漢の時代。
梁の呉均が著した『続斉諧記』には、
東漢の時に汝南の桓景という者が、費長房という道士に師事し、学んでいた。
ある日、費長房は、
「9月9日に、おまえの家は災いに襲われるから、急いで家族にそれぞれ、絳嚢(うすい赤絹の小さな袋)に茱萸の実を入れてひじにかけ、高い所に登って菊花酒を飲むように。そうすれば災いを除くことができる」と桓景に伝える。
桓景の家族がその通りに従い、夕方になって家に帰って見ると、鶏、犬、牛、羊といった家畜が全部死んでいた。
それから、9月9日になると、高い所に登って菊花酒を飲み、女性は袋に入れた茱萸を持って、邪を避け災いを除く風習が始まったという。
と、その由来を紹介しています。
また、漢の武帝の時代になると、茱萸(しゅうゆ)(和名:カワハジカミ)を帯び、菊花酒を飲むだけでなく、豆を蒸したもの(『西京雜記』)、また黍や黏米に味を加えたもの(『玉燭寳典』)なども食べるようになったことが記されています。
これは、古代日本において、春や秋の薬草摘みや、予祝・収穫の祭が、やがてピクニックのような行楽に変化していったように(同様の風習の変遷は、もちろん古代中国にもあります)、厄除けの風習が、行楽の要素を兼ね備えつつ、人々の間に定着していったことを示しています。
唐の時代になると、重陽節に高い所に登り、菊を賞で、茱萸を挿す風習は、とてもポピュラーなものになり、友人たちが集まって歓談し、飲酒して詩を詠じるのは、すでに行事のひとつになってきました。
そういうオプションの由来や理由は、また置いておくとして。
菊花酒を飲むのと長生きをするということは、白居易の「重陽の席上で白菊を賦す」などにあるように、すでに行事としての定着していることがわかります。
ちなみに中国で菊は「翁草(おきなくさ)」「千代見草(ちよみくさ)」「齢草(よわいくさ)」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていました。
一方、日本ではというと。
他の節供と同様、中国から平安時代の初期に伝来し、始めは宮中行事として行われたものですが、風習が伝わったのは、もう少し遡ります。
菊が長寿と結びついていること、また、ちょうど衣替えの時期でもあったことから、日本では、重陽の節供の前日から菊の花に綿を巻き(着綿)、菊の香りと菊の花に着く露をその綿に移して、この菊の露入りの綿で身を清めるという、独特の風習が生まれました。
しかし、これはまだ限られた人たちの風習で、五節供のひとつとして広く定着したのは、江戸時代から。
中国では、菊を賞でる風習は北宋の時代にも盛んで、清の時代には空前の賞菊会ブームがわきおこりましたが、日本の江戸時代でも、同じように菊の品種改良コンテストが盛んになりました。
重陽の節供と、同義語なのが「粟の節供」。
平安時代以前は、秋の収穫が行われる時期に、栗ご飯などで祝う風習がありました。
つまり、もともと日本にあった収穫祭の風習に、中国の「重陽節」が入り、両者が結びついて、年中行事として定着していったわけです。
呼び名も月日も、中国のものが導入されましたが、こうして、日本と中国で比較すると、それぞれの特徴がよくわかりますね。
京都の上賀茂神社では、9月9日に「烏相撲(からすすもう)」や「菊の被綿(きせわた」といった無病息災を祈る神事がとりおこなわれます。
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